2月に入って東京へ。東大の1次試験は駒場。2次試験は本郷であった。1次試験に備えて親父と共に下高井戸にあった親戚の家(空家)で過ごすことになった。地理に不案内な私は、親父に連れられて初めて電車を乗り継いだ。1次試験に合格したあと、今度は2次試験。今度は母親が親父と交代した。旅館は東大のすぐ近くであった。

試験があと2日という日に私は微熱(37~37.3℃)が出て、心配した母親は東大の近くの病院に私を連れて行った。レントゲンをはじめ検査をしたが全く異常はなかった。試験の前日の夜、心配した母親は仲居さんに私用に湯タンポをしてもらうように頼んでいた。ポカポカと温かかったが、母親が仲居さんにそっと小遣いを渡しているのを垣間見た。今になって親の愛情に感謝をしている。

記憶が乏しいが、3月6日頃に1次試験の発表があり3月8日に2次試験、そして3月20日頃に合格発表であったような記憶がある。

そしていよいよ母親と一緒に合格発表を見に東京に出かけたのである。

(つづく)

 

 

 

マイナンバーカードの問題には、さまざまの患者さんの声を聴く。

「保険証をなくするとはどういうことか?」

「マイナンバーとやらは地震になっても使えるのか?」

「停電になったらどうするんや?」

私の属する愛媛県保険医協会は「とにかくマイナ保険証は国民が熟知するまで時間をかけて教え、みんなが理解したところで実行してゆく。その時も現行保険証は使えるようにしておく。12月に保険証を中止、廃止することは民意に反する」と活動を続けています。総理は「国民の声を真摯に聞いて」と何回も叫んでいるが果たして国民は現行保険証の即廃止を望んでいるだろうか?

たまたま読んでいた京都協会の新聞で「マイナ問題で開業医が3人が閉院して悲しい」とあった。

今ならまだ間に合います。中止の即時撤回を求めています。

 

 

高3の1学期も終わる頃、担任のS先生と面談があった。「越智は東大医学部(理Ⅲ)を目指してがんばれ」と激励された。さて、誰もが体験する天王山の夏休み。

自宅に帰ってさあ勉強と意気込んだが、とに角、実家は今治のど真ん中。(港町)。朝から宣伝カーが例えば「今日は〇〇パチンコ。新装開店」だとか騒がしくて勉強の環境ではなかった。一計を案じた母親の案で親父の実家、今治市新谷(にや)で勉強をすることとなった。1日目の夜、とても静かで、虫の音がジージー鳴くぐらいで勉強に集中出来た。朝はセミの鳴き声で、周りは見渡す限り田んぼである。夕食後はステテコで周りの田んぼ、畑を散歩した。まさに自然の中に1人ぽっちであるが、精神的にはすごく落ち着いていた。おばさんも力がつくように美味しい食事を毎回作ってくれた。時々、母親が私のためにステーキを差し入れてくれたようである。

そして夏休みも終わり、中間テスト、期末テストもまずまずの成績で通過し、いよいよ、年も明けて、東大への受験となったのである。

(つづく)

 

 

 

TULIPアンコール公演が4月20日に松山は県民文化会館で行われた。(17:30開演)

財津和夫さんを生で観られて本当に感動の1日でした。

1971年に財津さんや姫野達也さんらのメンバー5人で結成され1972年、上京。東芝レコードより「魔法の黄色い靴」でデビュー。1973年には誰もが知っている「心の旅」がオリコン・チャート第1位を獲得し、その後、ファンなら誰もが知っている「銀の指環」「青春の影」「サボテンの花」「虹とスニーカーの頃」等、次々とヒットした。財津さんがしゃべっていましたがビートルズは世界の音楽を変えて、少しでも日本版ビートルズを目指してやってきたと。

今や76才になるがとても元気であった。2017年大腸がんになり、ファンをやきもきさせたが、すっかり治った感じがした。

姫野さんが座ったままのコンサートであったが、彼が2月の東京国際フォーラムの演奏中に勢い余って転倒し「腰を痛めて座ってのコンサートをお許し下さい」と元気な声でしゃべっていたが、姫野さんの声は本当にすばらしかった。

そして前日、城山にロープウェイで登ってそれ以上は登れないので茶店でアイスクリームを食べたと話してくれた。本当はもう少し登って、松山城を見てほしかったな、と誰もが思ったことでしょう。

前半はあまり私の知らない音楽ばかりでしたが、20分の休憩後、後半は有名な曲のオンパレードで歌によって、総立ちとなった。

財津さんが、途中のスピーチで20才台の人、30才台の人、手を挙げて!と次々と質問していたが、やはり60才、70才台の人が圧倒的に多かった。80才以上の人も数人居た。

「心の旅」では全員、総立ちで青春を思い切り懐かしんだ。いよいよラストは定番の「虹とスニーカーの頃」であった。

さて、ツアー最後のステージはやはり故郷、福岡で7月18日、19日とキョードー西日本から発表されていた。寂しいけど50余年、よくがんばりました。声援を送りたいです。

当日のセットリストを下に挙げました。御参照下さい。

第1部

1.「一人がいいさ」2.「セプテンバー」3.「風のメロディ」4.「見過ごしていた愛」5.「博多っ子純情」6.「ここはどこ」7.「もしも僕が」8.「エジプトの風」9.「走れ!ムーン号」10.「しっぽの丸い小犬」11.「逆回転」12.「街は黄昏がれに抱かれ」

第2部

13.「あの娘は魔法使い」14.「ブルー・スカイ」15.「夏色のおもいで」16.「神様に感謝しなければ」17.「虹とスニーカーの頃」18.「悲しきレイン・トレイン」19.「ぼくがつくった愛のうた~いとしのEmily~」20.「青春の影」21.「Shooting Star」

アンコール#1

22.「2222年ピクニック」23.「銀の指環」24.「私のアイドル」

アンコール#2

25.「心の旅」26.「魔法の黄色い靴」

 

 

 

 

 

4月11日(5)の続きである。

高2の春あたりから親父が、「東京の友達に会いたいものだ」と何回か口走るようになった。親孝行(?)の私は頭にずっとインプットした。

さて、そんな親父が私の幼少の時から話した逸話がある。それは、「広島の原爆にやられていたら、おまえは産まれてなかった」というものである。召集令状(赤紙)が来たあと親父は千葉の連隊に入っていたがある時、山口(?)への移動命令が出て汽車で兵隊が大勢移動した。その日、広島市を通過したら汽車から見える広島の街に何にもなかった。情報に乏しい時代である。「一体これはどうしたんだ!?」とみんな口々に叫んだそうである。そうです。前日に原爆が投下されたのです。当日なら親父は原爆死だったのである。しかし、それより小学生の私には「僕は母ちゃんのおなかから出てきたんだから、父ちゃんがいなくても産まれていたのでは?」とずっと考え込んでいたが、あえて質問することはなかった。

さて高3になって入試過去問題を解いていたら、京大よりも東大の方が私に合っていると思い始めたのである。親父にも東大へ行って観光もさせてやりたいと考え始め、東大の過去問をしきりに研究し始めた。モチベーションをあげるために東京の地図も買って、東京での生活を夢見るようになった。当時を知る受験生には懐かしい旺文社のラジオ講座やZ会の通信添削等、猛烈な勉学に突入したのであった。まさに「目指せ東大」なのであった。

(つづく)

 

 

 

 

四季折々の自然や日本独自の文化や生活の中で育まれ(はぐくまれ)てきた色彩を「伝統色」といいます。

代表的な色は「藤色」「藍色」「桃色」「茜色」「山吹色」などがあり、再現できる色だけでも400色以上あると言われます。

中でも「桃色」は日本各地で桜が咲き、その色は私たちの心に安らぎを与えてくれます。

春は自然の息吹を身近に感じられる季節です。

忙しい中、時には空を見上げ草花に目を向けて下さい。その豊かな色彩が安らぎと共に眠っていた感性を呼び戻すきっかけになることでしょう。

(追伸)

大洲フラワーパークでの素敵な写真です。

まさに春一色ですね。

 

 

 

ここでいったん親父の話をしてみたい。

母親と結婚してからは今治のどまん中の港町(現在の共栄町)で豆菓子店を営んだ。中国から落花生を仕入れて煎って、それを母親とアルバイトの人が袋詰めにして売っていた。その他、色々な豆やチョコレート、キャラメル等も売っていた。私は小学校から帰ったら、よく店番を手伝っていた。陳列に100g20円とあれば「200gくれ」と言われたら、客の前で測って「40円です。ありがとうございました」と商売根性は身についた。中には、いじわる質問で「70円分くれ」と言う客も居た。算数が得意だった私は客の前で袋に入れながら350g計って、くるくると両耳をつくって「ありがとうございました」と渡した。客はびっくりして「お前は何年生だ?」と聞くので「4年生です」と答えると、「天才だな。お前は」と、おほめの言葉をいただいた。

さて親父は豆を煎ったあとは、午後から夏はアユ獲りの投網。冬は鉄砲をかついで何人かの友人と、アユ獲り、いのしし狩りに出かけていた。私も夏休み、冬休みは駆り出されてよくアユ獲りやいのしし狩りの経験を積んだ。親父は夜は投網を天井からつって、穴が空いた所を縫って修繕していた。そして夜は仲間を呼んで、夏はアユ、冬はいのしし鍋をして大勢が集まり、今から考えると人生を謳歌して、83才で亡くなった。私が大勢と酒を飲むのが好きなのも親父から受けついだ遺伝子だと思っている。

(つづく)

 

 

 

 

「昼寝」は私も日よう日等は少々します。ただそれは「うたたね」にすぎません。

英語では「パワーナップ」と言います。

ナップは昼寝のことで昼食後に少しの時間だけ昼寝をすると心身がリフレッシュして午後のパワーがアップすることからこう呼ばれています。

何故、昼食後かと言うと私たちの眠気は12時間周期で変化して午前2時と午後2時に一番、眠気が強くなるからです。

だから昼食後に昼寝をすると午後の眠気防止になります。但し、長く眠るとダメで15~30分までにして下さい。

コーヒーが好きな人は昼寝の前に飲んでおくと30分くらいたって活動を始めるころにカフェインの覚醒効果が出てきます。

最後に、どうしても眠れなくても目を閉じているだけで多くの情報が遮断されて疲れは取れてきます。

 

前回(3月21日)に続いて高3の話である。私は自転車通学をして、その日も樋又通りを定刻に学校に向かっていた。すると突然、タイヤがパンクして運転不能になった。当日は世界史の試験の日であった。

頭がパニックになった。タクシーは通っていなかった。本当に焦った私は、道後から向かってきた自家用車に手を挙げた。運転手の男性が降りてきて「どうしましたか?」と。私は早口で「すみません。愛光学園に行く途中なんです。パンクしたので、すみませんが連れて行ってくれませんか?」と。

皆さんが運転手ならどう答えるでしょうか?幸いにも優しい方で「急いで乗りなさい」と言ってくれて私は無事に学校に到着した。道中、何を話したのか、お礼はどうしたのか、残念ながら全く記憶にない。50年経った今も、お礼をしたくてしようがない。もし、このブログを見て名乗り出てくれたら、しっかりとお礼をしたいと思っています。

「火事場の馬鹿力」なのか例えは分かりませんが強烈な想い出です。

さて、私の親父は大正生まれで、まさに戦争と向き合った世代です。今治の田舎、新谷(にや)生まれで百姓のせがれであった。時は「産めよ増やせよ」の時代で兄弟も10人以上。戦地に送るために男の子が生まれると、村長さんの音頭で村中の人が万才をしてくれたとよく話していました。そして当時、当たり前だった丁稚奉公(でっちぼうこう)で12才で単身上京。SEIKOの前身、精巧舎に就職しました。亀戸に工場があったようで、住居は東京の下町とだけ教えてくれました。そこで東京に友人が多く出来て、東京は親父の第2の故郷になりました。親父は(平成19年1月に死亡、83才)、よく私に東京の下町の話をしてくれ、やがて私の進路にも影響を及ぼしたのでした。

続きはまた次回で。

 

 

 

 

「箴言21」を今日は読んでみた。

「どんな場合でも慌てない人となるには平素の言動を出来るだけ落ちついて行う様心がけるべきである」人生に生ずる錯覚や過失というものは、その原因が心が慌てたときに多いからである。

慌てるというのは心がその刹那(せつな)放心状態に陥って行動と精神とが全然一致しない状態を言うのである。

言いかえると心があっても、なきに等しい状態になるのである。

例えば手に持っているものを忘れて、その物品を紛失したと早合点して大騒ぎして捜すという、ふつうなら考えられない珍芸をみなさん、したことはありませんか?

これは精神が一時的に、もうろう状態になって思慮も分別もなくなっていたからである。平素の心がけが大切である。

その昔、聖徳太子が手紙を書きつつ他人とも談話をし、また数学の計算をするという驚異的な人であったことを皆さん聞いたことがあるでしょう。これは精神のコンセントレーション(統一)さえ確実にできれば誰にでも出来ることです。

どんな時でも平素の言動を出来るだけ落ちついて行うように心がけて下さい。