合格発表を見るために母親と本郷に行った。
2人で番号を追った。しかし、私の番号はなかった。落ちたのだ!それからは母と何もしゃべった記憶がない。
新幹線で広島県三原市まで帰り、高速フェリーで今治港に夜遅く着いた。すると出口に母の姉が待っていてくれた。一言、「邦明。また来年がんばったらええんじゃ」。この言葉だけは今でも覚えている。帰宅して親父が何をしゃべったか等は全く記憶にない。しばらくして愛媛新聞の各大学の合格欄を見た。
東大の欄に当然、私の名前はなく、友人達がたくさん載っていた。それからは気持ちを切り替えて、お茶の水の駿台予備校に通うようになった。
不思議なもので東京の人、例えば開成高校等の人は浪人は当たり前の雰囲気で、ごっそり東大を受けて「落ちたら駿台に行って翌年、東大に行けばいい」という雰囲気で、ある意味、私は癒された。
私は前理A組に入り、その席の前列のK君は何と7浪であった。さて数学の3Nと言うあだ名がついた教師陣はすばらしかった。中田、根岸、野澤先生の頭文字である。愛光では教わったことのない「数学の解き方」を教わった。英語の鈴木長十、伊藤和夫先生、物理の坂間勇先生なども愛光の教え方とは全く違って学問の神様であった。
当然、教室は1杯になったが逆に人気のない先生はガラガラとなって、やがて居なくなった。(辞めさせられた?)。
そうして年末を迎え、進路指導の日が近づいて来た。
(つづく)