今回は高校の授業について書いてみたい。

その前に、愛光に入った時より毎日、2時限目と3時限目の間に「中間体操」と言って全校生徒が上半身裸になって校庭を何周もするのである。夏はともかく冬は本当にたまらなかった。今でも想い出すのは、2つ先輩の12期の向井玲二さんが赤尾の豆単(英語の単語集、赤尾好夫著、旺文社)を読みながら走っていたことである。まさに寸暇を惜しむ勉強である。(後に東大理Ⅲ(医学部)に現役で合格した。)。この中間体操も時代の流れでやがて廃止されたのは残念である。

さて私は、以前に語ったように医師か弁護士のうち医師を目指すように高2からなっていた。そして京大の医学部を目指すべくモチベーションをあげようと、京大の校歌を勉強の合い間に聴き、また本屋で買った京都市の地図を見ながら有名な地名の所へ将来行く夢を重ねてモチベーションを上げていた。

御存知の人は多いが、灘、ラサール等と同じく中高一貫の6年生の学校は高2で高3までの授業は終えていたので、高3になってからは入試本番の勉強に明け暮れた。英、数、物理は好きでよく勉強した。

高校からは愛光寮を出て、懐勉をしなくてすんだ。ところが道後の下宿の2階で勉強はしていたものの、ふすまの隣での大家夫婦のいびきの合唱が毎日続き、特に英語の単語が覚えられなくなった。しかたなく風呂場に降りて立ったまま勉強していたが蚊の大群に襲われ、とうとう成績が50番台に落ちてしまった。訳を聞いた母親は別の下宿を道後北代に捜してくれ、今回は静かで大いに勉強に打ち込めた。風呂は今はなき樋又通りの銭湯に通いつめた。そうして高3を迎えたのであった。(つづく)

 

 

今回は中学の授業について書いてみたい。

中2の時の国語の砂田先生の授業で、忘れられないのは壺井栄著の「二十四の瞳」の朗読であった。これが国語力のアップにつながるかは不明だったが、毎回、先生が朗読するのであった。その他、漢文、古文があった。正岡先生の漢文の授業で論語の授業は大変為になり、今でも職員の朝礼で使うこともある。「吾十有五にして学に志す」は今でもまさに15才で漢文を習ったんだなあと懐かしく思い出す。「七十にして心の欲する所に従へども矩(のり)を越えず」は果たして出来ているだろうか?また「吾、日に吾が身を三省す」はすばらしい言葉で、ここから書店「三省堂」が出来たことは有名である。

英語は一番最初に記憶に残ったのは谷後先生の「Station」であった。右手を突き出して「ステイ」、それから左手を突き出して「ション」。今でも右手、左手とやってしまう懐かしい「Station」。それにしても、英語なるものを最初に聞いた時の感想は、江戸時代に信長が異国人と会った時の感想に似ていると今でも想い出す。これが「英語」なるものかと。

中1の一番最初の英、数、国の実力テストが14番だったことで自信がついたのは今でもくっきり覚えている。

さて、言い忘れたが愛光学園は現在の宮西町、フジグランにあったのであり、朝美町の寮からの通学は10分ほどであった。そして途中、予讃線の踏切を渡るのである。ホームシックに当初かかっていた私はこの踏み切りで立ち止まって、汽車に飛び乗れば、今治に帰れるんだなと、「旅愁」を何度も口ずさんだ。「恋しやふるさと なつかし父母」♫♪。(つづく)

 

 

 

 

怒りは、自分の領域に侵入された「ひどい」という考えから生まれる。

そのようなときに、こころのエネルギーを高めて自分を守らなくてはならない。何もしないでいると、相手の思うがままに行動して自分の立場はますます悪くなる。だから無意識のうちにこころのエネルギーを高めて自分を守る行動をとります。

怒りは自分を守る大切な感情ですが、エネルギーが強いだけに相手を傷つけて関係が悪化する可能性が大です。

戦争をみていると両国が怒りの応酬になっていますね。

こうした時に役に立つのが、上手に怒りの波乗りをする技術です。深く呼吸をしたり手の握りこぶしに力を入れたりして気持ちを落ち着ける。その場を離れて飲み物を飲んでみる。そうすることで怒りのエネルギーを自分のために使って下さい。

 

 

 

 

本日、3月11日は当院の37回目の創立記念日である。

開院当日は大林組さんを始め、花輪をいただいて光栄なスタートでした。

よくまあ37年もやってきたなあというのが正直な実感です。

義父、後藤田先生(後藤田内科、昭和43年開業、)から引き継いだので55年にも及ぶ。

なんと55年も来院している方が居るのは嬉しいし、感謝の一言です。先日も55年間来てくれている女性と話しましたが、私に向かって「ずっとずっと頑張って欲しい」と激励されて、じーんと来ました。

この37年間に医療も大きく変わり、何と言っても開業当初、レセプトコンピュータを入れた時は「何と便利なものがあるんだろう」と驚いた記憶があります。

当初、虫垂炎の手術をした、やんちゃ学生が「30年ぶりに会社の転勤で松山に戻ってきました」と、あいさつに来てくれた時は本当に嬉しくなりました。また多くの製薬関係の方々にも色々と助けていただいて、この場を借りて感謝申し上げます。

今後共、宜しくお願い致します。

(追伸)

娘、ゆうり、まりかより 励ましの手紙をくれました。

 

 

 

 

 

さて中学校に無事に入った。「松山」は叔母が道後に居たので何度も来ていたから、全く知らない街ではなかった。

問題は下宿として入った「愛光寮」である。全室、2人部屋であった。規則は厳しく朝のラジオ体操が大の苦手であった。低血圧であった私は早起きは嫌でほぼ眠った状態で体を音楽に合わせてグルグル回していた。夜は5時夕食、5時半~7時と8時~10時までは勉強時間で寮監さんが厳しく部屋を回ってきた。中に、他の部屋で遊んでいる生徒を見つけては厳しく叱責していた。

今でも思い出すのは中3の時の夕食である。中1から高3まで全員が食堂で食べる食事は全て一緒であった。ある日の夕食が「素うどん」1杯であった。中3の私はそれで良いとしても高3生にはかなりきつかったのではないかと今でも思い出す。

そして何と言っても11時の消灯は完全に真っ暗になるため、9時過ぎたら歯みがき等をして就寝に備えるのである。

しかし問題は試験期間中である。とても11時には勉強が終わらず懐中電灯で勉強していた。そのため小学校の時に1.5~2.0あった視力も高1のときには眼鏡が必要になってしまった。これは今でも悲しい現実である。後に懐中電灯での勉強は「懐勉」と呼ばれるようになった。

さて、一番辛かったのは、入寮の時に母親が「がんばれよ。おなかが空いたら缶詰(桃)を食べるんよ」と言いながら去った後である。「小学校の間、ずっと毎日母ちゃんと一緒だったのに、どうして1人ぼっちになったんだろう?俺は毎日、どうやって生きていくんだろう」と、とてつもない寂しさを覚え、夜のベッドで1人涙した事は今でも忘れられない。現在のように携帯もなければ週刊誌もない昭和40年代。いくら定められた宿命とは言え、残酷な現実がそこにあった。あとは寮則に従って黙々と生きて行くだけのドライな4月であった。こうして寂しさを紛らわすために、ひたすら勉学に打ち込んだのであった。(つづく)

①愛光学園の生徒手帳。

②中1~中3までの身分証明書。

③朝美町(現、愛光町)から愛光への通学路。遠くに城山が見える。右が松山方面、左が今治方面となる線路。

④中3のときの愛光寮全員の写真。3列目の右から2番目。寮母さんの隣が私。

 

 

コロナでなかなか乾杯をすることが少なくなりましたが、乾杯でグラスを鳴らす文化を調べてみました。

すると西洋の宗教的な儀式や悪魔ばらいがはじまりだったようです。互いの飲み物が飛び散り混ざり合っても毒が入っていないという意思表示で行われていたとの説もあります。

さて、結婚式場やフォーマルなレストランでは繊細な細いグラスを使用していることが多いので、傷がつかないように音を立てることは避ける方が無難です。もし割れてしまったら、その場の雰囲気を壊してしまいます。

グラスを鳴らさない乾杯の仕方は唱和をしながらグラスを目の高さまで持っていきます。そしてグラスを上げたまま、隣や近くにいる人とアイコンタクトや目礼をします。

ひと口、グラスに口をつけて飲んでから最後にテーブルにグラスを、そっと置いたら拍手をしましょう。

とに角、明るく乾杯をして、その場を楽しくふるまって下さい。

 

 

 

この年になって、思春期の頃からの想い出を回想するようになった。

今治小学校の在学中、母親から「おまえは医者か弁護士になって欲しい」と言われた。

母親に忠実(?)な私はずっと頭の片隅に入れていた。小4の頃に学校から母親に「邦明君は愛光中学に入れたらどうか?と言われた」と母親から告げられた。

私はその意味が全く分からず「あいこう?」と呪文のように唱えていた。やがて5年生になって、ある先生に愛光中学入試のためのレッスンを受けるようになった。商売人の今治ではこれを塾と言わず「勉強屋」と呼んでいた。この勉強屋は塾生2人で私と、後に今治の放射線第1病院の院長となった木本眞君であった。現在は今治市医師会長をしている。

私は5年、6年生と木本君とは本当によく学びよく遊んだ。そして2人共、愛光学園の入学を無事に果たしたのであった。合格祝いに私、木本君と両家の両親の計6人で夕食会が行われた。木本君の父親のとても嬉しそうに酒を飲んでいる顔が今でも脳裏に焼きついている。

尚、2人のあだ名は「きもにい」「くんにい」であった。(続く)。

今日の言葉。

「人生に活きる際 気取ったふりをしないように心がけると どんなに心に余裕が出来るか わからない」

説明すると、心に何の執着もない場合、即ち、何事にもとらわれていないときは臨機応変の対応が出来るということです。

反対に心に何かのわだかまりがあると、心の働きがたちまち落ちて成功の確率が著しく低下するとあります。

私は手術をするときは最近、このことを実践しています。人間誰しも嫌な事、家族での悩みなど、必ず何かは持って生きています。もしそれを事を成すときに考えながらしたらどうなるでしょう?ゴルファーもそう、ピアニストもそうだと思います。何かを成功させたいときは心をまっ白にして臨んでみて下さい。きっと成功します。

 

 

 

馬は生まれて間もなく立ち上がるが、人間は立ち上がるまでに1年近くかかるのはなぜか?今回は横浜市立みなと赤十字病院の新井基洋先生の論文から引用してみた。

人間の重心はとても高く足元から約55%の位置にある。二足歩行で足の面積も小さいため、絶えず不安定な状態である。四足歩行なら安定するが何百万年も前に二足歩行に進化した。二足歩行には重力に抗う坑動筋の他、深部感覚器、足の皮膚に分布する表在感覚器が重要である。

三半規管や耳石器の働きも重要である。

脳を司令塔とする高度なメカニズムとたゆまない全身の骨格筋の活動。

赤ん坊が人知れず努力して立ち上がるように高齢になっても二足歩行を続けられるように筋力をふだんから鍛えて下さい。

(追伸)

春近し。まりかは、宇和島は南楽園の梅まつりに行ってきたそうです。

私も過去に2回行きましたが、本当に広大ですばらしい庭園です。薬メーカーのMRさんには、「愛媛に居る間に1回は訪れて下さい」と催促して、行ってみた多くのMRさんに感謝されました。

まりかもモデル気分です。

 

 

先日、松山郊外で1年に1回の同窓会があった。

30人ほどの集まりで定刻6時に始まった。ところがである。幹事より冒頭のあいさつの後、今日の終わりの9時でタクシーを予約しようとしたんですが、5台しかないそうです。どうか乗り合いで帰って下さい。

コロナを契機に確かにタクシー会社の倒産や運転手の退職は気になっていた。また、飲み会が減って5年前のような活気はない。いわゆる「家飲み」が増えたのも一因です。

国交省は対処すべく一般ドライバーが有償で客を運ぶ「ライドシェア」の検討を始めた。

しかし、京大教授の藤井聡先生が話しているように、解禁すると車の数が増え、結果的にタクシー運賃は激しく下落し人手不足が修復不可能になると警告を発している。

早急に対策を政府は打って欲しい。

学会に行ったものの帰りの車がないとは・・・。