最近、気がついた日本人の交通マナーについて書いてみたい。

①まりかが来た時に、犬のキー君と散歩に出かけた。「横断歩道を渡るときは右手を大きくあげて渡るんだよ」と改めて注意しておいた。その日も帰りに近付いた時に横断歩道があり、まりかが大きく手をあげながら私と渡ろうとした。右手の方から軽自動車が来て当然、止まるものだと思ったが大きくハンドルを切って止まることなく我々を避けて過ぎ去った。子供にとっては実に悪いマナーの見本例である。明らかな道路交通法違反である。その後、私も何度も、経験した。厳罰に処すべき事例が多発している。

②狭い道路が途中にあり、どうみても私と相手の車がすれ違えない場合に、相手が止まるべき事例に於いて、そのままつっこんで来てしまう。結局、こちらがバックするはめになったが、後ろは渋滞でパニック。こんな経験は皆さん、ないですか?

③信号左折のとき歩行者がゆっくりとメールを打ちながら渡るのによく遭遇する。これは主に学生だが絶対にやめて欲しい。

教習所もこの事例を教習時に是非、教えて欲しい。すみやかな車の流れのために。

(追伸)

私の散歩の御幸は大川沿いに毎年、ジャカランダが美しい紫の花を咲かせます。

ジャカランダは和名が紫雲穆(しうんぼく)と呼ばれ、世界三大花木の一つです。

原産は南アフリカで世界的には南アフリカのケープ半島の群生が有名だそうです。

 

 

昭和世代のどこにも居る会社の上司が患者さんとしてやって来る。

色々な会社の方から「今の若者は・・・」との批判をよく耳にする。

例えば

①忘年会をやるぞ→それって強制ですか? 時間外手当は出るんですか?

②新人研修をした日に→「お先に失礼します」と言わないで帰ってしまう。

③新人の失敗を先輩が解決した→帰りに何も言わずに帰った。

④朝から無断欠勤→ラインで「辞めます」と。

こう言った嘆きを多くの上司、中堅社員(患者さん)から聞くようになりました。若者からすると、帰り際のあいさつはタイパ(タイムパフォーマンス)が悪い、つまり時間の無駄と考える若者がいるそうです。自分は早く帰りたいのに上司や先輩に下手に声をかけると、「仕事は慣れたか?」などと引き留められたり「食事でも」と誘われたら大変、と思うらしい。余計な時間がかかるから、そっとフェードアウトするんだと。

聞いていて、私も昭和世代ですが悲しくなります。昭和は遠くなりにけり。

 

 

母校、医歯大の教養部のある国府台(こうのだい)は歴史的にも古代史に出てくる有名な所である。(詳細は省略)。近くには江戸川が流れ(矢切の渡し)、広い芝生のあるグラウンドで、我々は「国府台牧場」とネーミングしていた。ある教授が一生懸命、ゴルフの素振りやピッチングの練習をしていたのをはっきり覚えている。50年近くも前だから世相ものんびりしたものである。

本部のお茶の水は、東京のどまんなかで便利ではあるが、自然に囲まれたとはとても言い難かった。

さて、本題の友人達である。医歯大は1学年80人の定員で頭文字をアイウエオ順で3分割しA、B、C組に医科も歯科も分かれていた。

私の「オ」は当然、A組でアからキまでの姓の友人達となった。A組は今でも団結が深い。4月、5月はみんな現役以外は東大や京大を落ちた人ばかりで、みんな悔しさのあまり「来年も理Ⅲを再受験する」と息巻く連中が多かった。ある意味、合格の喜びは半分であった。

ある時にA君と友人になり受験の話となった。A君は3浪だが、2浪目は絶対的な自信をもって駿台から臨んでいた。ところが彼には「花粉症」というやっかいな持病があった。(私もであるが)。背水の陣を敷くために朝一番でアレルギー予防薬を服用して家を出た。(試験中にタラタラと鼻水が出ないように。)この薬は当時はポピュラーな「ダンリッチ」であった。ところがダンリッチはよく効く反面、眠気が強いという欠点もあった。A君は1日目の1時限目の試験を解くうちに猛烈な眠気に襲われて何と寝てしまったのである。「はい、やめて」の試験管の大声で目が覚めたが時すでに遅し。かくして3浪が決定したのである。

次にK1君は、数学は天才的だったそうだが、理Ⅲの国語でつまづいて医歯大に入った。4月は一生懸命、翌年の受験に備えて勉学に励んでいた。

こんな訳だからモチベーションのあがらない、4~5月であったが、やがて教養部の「ドイツ語」の授業等にみんな没頭するようになって夏頃には、みんな医歯大の教養部生活を楽しむようになった。

そうしているうちに、私は開成高卒のK2君と大変親しくなった。彼が本屋の息子で旅行の時刻表等もいつでも見れる環境にあったため、時刻表を組み合わせ、私とK2君、さっきの3浪のA君、更にもう1人のK3君と4人組が完成し、春、夏の長期休暇の度に全国を旅行したのも青春の楽しい想い出である。(今のようにパソコンもネットもない時代に列車の時刻表を組み合わせていくK2君はさすが開成卒だと今でも尊敬している。)

回想して強烈に残っているのは函館山からの夜景、小海線から見た八ヶ岳、島根県の出雲大社である。

さて最近の話ですが、浪人の末、某医学部に合格した知人の息子N君に、「とに角、学生の間に旅行をして、そして麻雀も覚えておけ」と偉そうな事を言ったのも、青春の想い出からの懐かしさからである。

(青春篇は今回でおわり)。

 

 

 

 

 

 

東医歯大の試験を終わった後、3月末に合格発表があるのだが、まず合格は不可能と考えていた。東京は王子の下宿で同じ浪人生活をしていた山鹿君は歯学部を目指していて、既に新潟大の歯学部(1期校)は合格していたが、本人は東医歯大の歯学部に入りたかったので私と一緒に試験は受けていた。その山鹿君が「越智君、合格発表は僕が東京に残って見に行くから愛媛の自宅電話番号だけ教えて」と言われて、私はさっさと帰郷していた。私は4月の駿台再入学を目指して毎日寝て暮らしていた。3月末のある日の朝、10時くらいに2階で寝ていた私を母親が大声で「やまがという人から電話だよ!」と起こした。正直「なんだろう?」とつぶやきながら電話に出ると、「越智君、合格していたよ。おめでとう」と。あっ、そうか。今日が発表日だったんだ。

その時点では私は何が何でも東大再受験を考えていたので医歯大は断ろうか?と考えた。母親も複雑な顔で「あんたの好きにしたらいい」と。困った私は駿台進路指導の野崎先生に電話した。すると野崎先生が「越智君、来年理Ⅲが絶対に通るという保証はないよ。医歯大も立派な大学なんだから医歯大に行きなさい!」と。私は喜びも半分ながら、従った。親父の働いている所に行って訳を話すと「そうか、良かったな」と一言つぶやいた。本当はすごく肩の荷が下りたはずであるが、あまり、しゃべらない親父であった。

そして、いよいよ4月から東医歯大での生活が始まった。教養部の2年間は千葉県市川市の国府台にあり、そこでさまざまな受験生活をして来た友人と出会うのである。

(つづく)

(追伸)

私事ですが6月2日に実母が亡くなりました。(享年98才)。

当院で私が見送れたのが幸せでした。兄と妹の計3人を精一杯、育ててくれて感謝です。

生前、お付き合いいただいた多くの方々に、この場を借りて厚く御礼申し上げます。

 

 

 

 

 

 

みなさん、「人が自分のことをどう思っているか?」と気にしていますか?

相手に好かれるように振舞っていませんか?

新渡戸稲造の「武士道」のマナーについての一節です。「体裁を気にして行うのならば礼儀とは浅ましい行為である。真の礼儀とは相手に対する思いやりの心、それが外にあらわれたもの。礼儀の最高の姿は愛と変わりません」と。

マナーは愛。自分を大切にするように人を大切にする心。自分がされて嫌なことをしない。自分がされて嬉しいことをする。

自分がした行為に相手が不愉快だといったら素直に謝ればよいのです。

マナーは自分が恥をかかないために学ぶのではなく、相手に恥をかかせないために身につけるものです。

マナーは相手を思いやるためにあるのです。

 

 

進路指導の野崎先生に呼ばれた。「越智君の成績なら理Ⅲは大丈夫だ。このまま頑張ればよい」。1月には成績優秀という表彰状までいただいて、すっかり自信をつけていた。

試験慣れのために、どこか私立大学を受けておくか?という話になって当時、一番、難しいとされた早大の理工学部を受けることになった。この話は誰にも話したことはなかったが、早大の構内に入ったのはこれが最初で最後である。英、数、理を受け帰りには代々木ゼミナールの人が解答を配ってくれた。マークシートだったので自己採点も早く、ほぼ満点であった。「特待生で早大に来てくれ」と封書が届いたが、私はとに角、理Ⅲを目指さねばならなかった。

さて昭和57年までは国立大は一期校と二期校があり(共通一次の前の時代)、今度は一浪の身であるので一期は東大、二期は東医歯大で願書を出した。

そしていよいよ東大受験の日。すいすいと進んで物理の問題。3問しかないんだな、と何度も確かめて回りを見渡す余裕があったが、あと10分くらいの所で「何かおかしい」と裏面を見ると裏にも問題があったのである。必死で解いたが、もう間に合わなかった。他の教科もがんばったが、発表の日は予想通り落ちていた。

絶望である。仕方がない。二期校の東医歯大の試験に臨んだ。倍率は50倍を越えていた。東大、京大、阪大等落ちた人がみんな来るので、すごい倍率になるのである。試験会場もないので代々木ゼミナールで受けた。1クラスは50人ぐらいの収容なので合格の自信は全くなかったが何とか終えて、その後、2浪のために駿台の受付を済ませて今治に帰った。親父が「あと1年、がんばって働かないかんな」とつぶやいた言葉を今でも忘れられない。

(つづく)

 

 

 

 

「3人寄れば文殊の知恵」にまつわるお話である。

神田東クリニックの高野先生の談話から拝借しました。

人が1人で出来ることは限られている。だから集団を作って、1+1が2以上になるような活動が行われている。学校、会社、病院全て集団である。

1人で考えても思いつかないのに集って相談すれば素晴らしい知恵が出ることは皆さんよく経験するでしょう。

あるテーマをめぐって自由に意見を出し合うことにより新しいアイデアを生み出す手法を「ブレンストーミング」と呼ぶ。他のアイデアがきっかけで自分自身にもまた新しいアイデアが浮かびます。

一方で「船頭多くして船山に上る」もあります。指示する人が多すぎてもダメです。

一人で考え続けて悩みの溝を掘り進めてはいけません。その時は話せる友人に相談して下さい。私も多くの友人、先輩を頼ります。

人は1人では生きていけない・・・。

 

 

合格発表を見るために母親と本郷に行った。

2人で番号を追った。しかし、私の番号はなかった。落ちたのだ!それからは母と何もしゃべった記憶がない。

新幹線で広島県三原市まで帰り、高速フェリーで今治港に夜遅く着いた。すると出口に母の姉が待っていてくれた。一言、「邦明。また来年がんばったらええんじゃ」。この言葉だけは今でも覚えている。帰宅して親父が何をしゃべったか等は全く記憶にない。しばらくして愛媛新聞の各大学の合格欄を見た。

東大の欄に当然、私の名前はなく、友人達がたくさん載っていた。それからは気持ちを切り替えて、お茶の水の駿台予備校に通うようになった。

不思議なもので東京の人、例えば開成高校等の人は浪人は当たり前の雰囲気で、ごっそり東大を受けて「落ちたら駿台に行って翌年、東大に行けばいい」という雰囲気で、ある意味、私は癒された。

私は前理A組に入り、その席の前列のK君は何と7浪であった。さて数学の3Nと言うあだ名がついた教師陣はすばらしかった。中田、根岸、野澤先生の頭文字である。愛光では教わったことのない「数学の解き方」を教わった。英語の鈴木長十、伊藤和夫先生、物理の坂間勇先生なども愛光の教え方とは全く違って学問の神様であった。

当然、教室は1杯になったが逆に人気のない先生はガラガラとなって、やがて居なくなった。(辞めさせられた?)。

そうして年末を迎え、進路指導の日が近づいて来た。

(つづく)

 

 

犬を飼っている人は多いです。

私も愛犬キー君を散歩につれて行きます。

さてAさんは友人が飼っているカイト君を3日間預かりました。

その際に友人から「無理に散歩に行かなくていいよ」と言われました。

犬を飼った経験がないA君は憧れの犬の散歩を張り切って出かけました。

しかしカイト君は全く歩こうとしません。ようやく外に出ても行きたい方向に行ってくれません。

友人の言葉を素直に受けなかったことを反省したAさん。カイト君の気持ちを考えていなかったことに気づきました。まずは信頼を得なければ友好な関係を築けないのは犬も人も同じです。

相手の気持ちを踏まえた行動をとりましょう。

 

 

 

2月に入って東京へ。東大の1次試験は駒場。2次試験は本郷であった。1次試験に備えて親父と共に下高井戸にあった親戚の家(空家)で過ごすことになった。地理に不案内な私は、親父に連れられて初めて電車を乗り継いだ。1次試験に合格したあと、今度は2次試験。今度は母親が親父と交代した。旅館は東大のすぐ近くであった。

試験があと2日という日に私は微熱(37~37.3℃)が出て、心配した母親は東大の近くの病院に私を連れて行った。レントゲンをはじめ検査をしたが全く異常はなかった。試験の前日の夜、心配した母親は仲居さんに私用に湯タンポをしてもらうように頼んでいた。ポカポカと温かかったが、母親が仲居さんにそっと小遣いを渡しているのを垣間見た。今になって親の愛情に感謝をしている。

記憶が乏しいが、3月6日頃に1次試験の発表があり3月8日に2次試験、そして3月20日頃に合格発表であったような記憶がある。

そしていよいよ母親と一緒に合格発表を見に東京に出かけたのである。

(つづく)